置き忘れた傘
鼠色の雲に覆われた空から、シトシトと降り注ぐ雨。
朝からそんな雨が降っていて、空気もなんだか重たく感じる。
日本家屋の庭園でその様を見ていたなら、風情があって良いかもしれないけど、残念ながら純然たる日本家屋に住む人はこのご時世には少ないものだ。
だから水面に跳ね返る雨音や石に跳ねる水の音、雨に濡れ木々から香る草木の香りもそうそう感じる事は出来ない。
そんな風情な雨なら、憂鬱な気分も少しは晴れるかもしれないが、現実アスファルトに雨水が跳ね返る音と、どんよりと重たい雰囲気の方が強い。
そんな日々が続いた所為か、私のお供はお気に入りの傘だった。
憂鬱な気持ちもこの傘があれば、何となく気分を浮上させてくれる。
クルクルと柄を回して、跳ねる滴を飛ばすのも子供ぽくはあるけれど、少し心を浮上させてくれるものだ。
一度、大好きなお姉様と気まずくなった日が続いた時に、私の手から離れた事のあるこの傘は本当に私の支えてくれたものの一つなのだと切に思う。
失ってから私は、その傘を忘れないように気にかけて、同じ過ちは起きない様にしてきたのだ。
なのに、私ときたら…。
学校から出ると、嘘の様にすみわたる青空だった。
学校帰りに、書店に寄り少し気になるケーキ屋さんを立ち寄りながら、充実した時間を満喫した。
そうして、ホクホクしていた気分に浸っていると私はふと有る事に気がついた。
「あれ?傘?」
思わず呟く言葉と、鞄を手にしていない方の手を見つめて私の口から言葉がこぼれた。
そう…朝雨で差してきた傘が実は手元になかったのである。
それはある種の油断。雨の後からりと晴れた陽だまりに誘われて、私は大事な傘を置き忘れたのだ。
まったくもって迂闊者である。
(さて、どこに置き忘れたのだろうか?)
はて?と首をひねり私は、つい今しがたの自分の行動を思い返す。
学校に行くまでは差していた傘の所在を…。
(私そういえば、学校出るとき傘持ってたかな?)
ちょっと前の事を私が思い巡らせているときだった…。
「やぁ祐己ちゃん」
片手をあげて実に爽やかそうに彼の人は私に声をかけた。そう…柏木さんが。
私はため息一つ吐いて、声をかけてきた柏木さんに目線を向ける。
「ごきげんよう。柏木さん」
「うん。ごきげんよう祐己ちゃん」
軽く挨拶をすれば、柏木さんもそう返してくる。
そして無駄に爽やかな笑顔と共に。
「こんな所で何か御用ですか?祐麒ならご覧の通りいませんよ」
そっけなくそう言う私に、柏木さんは別に気を悪くする事も無く一層笑を深くした。
「そうだね。ユキチが此処に居ないのは知ってるよ。何せ大学の帰りだから、ユキチに用があるなら高等部に寄るしね。故に僕は祐己ちゃんに用があるんだよ」
「私にですか?」
「そう。さしずめ僕は愛のポストマンならぬ配達人って所かな」
本気なのか嘘なのか判断がつきにくい口調で柏木さんはそう口にした。
私が意味を理解しきれない様子に、柏木さんは悪戯ぽい笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。変なものじゃない。しいて言えば祐己ちゃんの忘れ物を届けにきただけだから」
相も変わらず読めない表情に微笑みをたたえる彼。
「忘れ物…忘れも…ああ(傘)」
「良かった思い出した?そう祐己ちゃんのお気に入りの傘だよ」
間抜けにも大口を開けた私を気にした様子も無いまま、柏木さんは私のお気に入りの傘を背後からそっと私の目の前に見せた。
(でも…何で柏木さんが私の傘を持っているのだろうか?)
何となく浮かぶ疑問に柏木さんは、またもやニコリと微笑んだ。
「僕が祐己ちゃんの傘を持っている事を不思議に思ってるって顔だね」
「な…何で」
「ユキチといい、祐己ちゃんといい、二人とも顔にすぐ出るからね」
柏木さんの言葉に、慌てて自分の顔をついペタペタ触ってしまう私。
(そんなに私の顔にでるのだろうか?)
「そんなに気にしないでよ。素直な事は美徳だよ。まぁ、僕が傘を届けたのは、瞳子に頼まれたからなんだ」
「瞳子ですか」
「そうだよ君の妹の瞳子にね。何でも大事な傘だから、祐己ちゃんはきっと心配するだろうって。自分が届けたいけど部活があるし、突然雨に降られたら困るってことで僕に白羽の矢が立ったわけなんだ。だから、祐己ちゃんのストーカーとかじゃないから安心してね」
口元に指を1本当てて「ちなみに居場所はユキチが教えてくれたんだよ」と言葉をつなげた柏木さんは悪戯ぽい微笑みだった。
そっと差し出されたお気に入りの傘を私は両手で受け取った。
その様子を満足そうに眺めていた柏木さんがゆっくりと言葉を紡いだ。
「それと、祐巳ちゃん。哀れなポストマンのささやかなお願いを聞いてくれないだろうか?」
「何ですか?変なお願いは無理ですよ」
「大丈夫、変なお願いじゃないよ。お茶に付き合って欲しいんだ。ケーキも紅茶も絶品でね。もちろん僕の奢りなんだけど、付き合ってくれないかな?最近瞳子も付き合いが悪くてね」
少し困った表情でそう紡ぐ柏木さん。瞳子を掛け合いだすところも実に侮れない。正直、柏木さんとのお茶っていうのもそんなに嫌では無いので、私は仕方がないといった表情で承諾の返事を返す。
「断られたらどうしようかと思ったよ」
「断らないと思ってたくせに」
そんな風に毒を吐くと、柏木さんは肩を竦めてから、王子様スマイルを浮かべて私に手を差し出しながら言葉を紡いだ。
「でわ参りましょうかシンデレラ」
うやうやしく私の手をとって。恥ずかしいながら私は、銀杏王子に導かれるように喫茶店に向かったのである。
(たまには、忘れ物も悪くないのかもしれないかな?)
なんて、私は柏木さんの奢りのケーキに思いを馳せながらそんな風に思ったのだった。
おわし
2009.10.18 From:Koumi Sunohara